LOGINその猫……スケキヨは、今日も飼い主の三葉の足元で丸くなっていた。
彼女が川本夫妻からこの猫を引き取ってから、もう半年が経つ。 スケキヨはこの世に生まれて一年目でもある。猫の顔は、目の周りが黒く、どこかパンダのようにも見える。 しかし、三葉が引き取った時、川中さんの夫が 「こりゃスケキヨだな」 と勝手にそう呼んだのがきっかけで、その名が定着してしまった。 (ちなみに川本の奥さん、房江は「パンダ」かあるいはパンダに似ているから「シャンシャン」とか「リンリン」がよかったらしいが……) 三葉は少し戸惑いながらも、結局そのまま「スケキヨ」と呼ぶことにした。 「スケキヨ、何だかあなた、似てるのよね……くつろぐ姿がさ。それに、いつもあの人がいた場所でくつろいでるし」 三葉は、そう言いながらスケキヨを撫でた。その「あの人」とは、もちろん亡くなった夫、大島和樹のことだ。 その猫に転生した大島は、彼女の言葉を聞くたびに心の中でため息をつく。(もちろん転生したことは三葉も周りも誰も知らない。) この「スケキヨ」という名前もどうにかならなかったのか、と。 彼はパンダのような顔を自覚しているが、なぜ「スケキヨ」と呼ばれなければならないのか。しかし、猫の姿になった今、名前に文句をつけることもできない。 『諦めるしかない……ああ。今更ネコスケとかオカカとか猫特有の名前をつけられても困る。』 転生して一年が経ったが、彼は未だにこの不条理な状況を完全には受け入れられずにいた。それでも、こうして三葉のそばにいられることは、ありがたいとも感じている。 もしあの時、自分が助けた母猫が死んでいたら、今ここに自分も存在していなかったかもしれない。 『命を救ったから恩返しとしてこの猫に転生したのだろうか』 と自分に言い聞かせていた。 『まさか、スケキヨなんて名前で呼ばれるとはな……』 大島は苦笑しながらも、三葉の温かい手の感触に少しだけ癒されていた。 妻に自分の正体を伝える手段はないが、彼女が自分を撫でるたび、心の奥で再び繋がっているのだと感じる瞬間がある。名前こそ「スケキヨ」だが、今のこの平穏な日常は、彼にとって大切なものになりつつあった。 しかし、ふと視線を仏壇に向けると、彼の心はまた別の不安が襲う。 このマンションに置かれた小さな仏壇。まさか自分が亡くなり、こんなものが置かれるなんて、想像もしていなかった。 仏壇に置かれている自分の遺影の写真がなんとも情けなく、他にいい写真はなかったのかと思いながらも……。 『ああ、まだこのマンションを買ったばかりなのに……頭金は少し出したが、ローンは20年も残ってる。三葉、ひとりで返せるのか?』 大島は、スケキヨの姿でじっと仏壇を見つめながら、彼女の生活を心配していた。 三葉はまだ高校の養護教員として働いているため、なんとかやりくりできているだろうが、大島が亡くなった後の保険金がどうにも頼りなく感じる。 自分がいれば、もっと違う形で支えることができたのに……そう思わずにはいられない。 『きもちいいいい……』 大島は、三葉の手に撫でられながら、彼女との再びのつながりに感謝していたものの、その胸の奥には複雑な思いが混ざっていた。 この半年、彼はずっと彼女のそばにいた。だが、その時間は決して平穏ではなかった。 大島が亡くなった直後、三葉はひどく落ち込んでいた。彼女は毎日のように泣き続け、ほとんど家に籠もりきりだった。 あの明るくて、しっかりとした三葉が、まるで別人のようだった。その様子を見て、大島は心が引き裂かれるような思いをしていた。 彼女が少しずつ日常に戻ってきたのは、スケキヨを引き取ったくらいのことだった。仕事に復帰し、高校の養護教員としての職務に戻ることで、三葉は少しずつ自分を取り戻していった。 『やっと、落ち着いてきたか……』 大島は心の中でそう呟いた。三葉が前を向いてくれていることに、彼はほっとした。だが、それと同時に、2人の間にあったもう一つの大きな問題が再び彼の心に浮かび上がった。 そう、2人の間には子供がいなかった。 結婚してからすぐ、2人は不妊治療を始めた。三葉も大島も、すでに高齢出産の年齢に差し掛かっていた。 交際中には避妊しなかったにもかかわらず、妊娠の兆候は一度もなかった。そのため、周囲の勧めもあり、2人はすぐに不妊治療を開始した。しかし、治療は思うようには進まず、妊娠は叶わなかった。 『治療費も、かなりかかったもんなぁ……』 大島は、猫の体で頭を抱えるように丸くなりながら、ため息をついた。不妊治療は三葉にとって心身ともに大きな負担であり、そのうえ経済的にも厳しいものだった。 しかも、彼らが住んでいる新しいマンションのローンもまだ残っている。彼の保険金があったとはいえ、それも長くは持たない。 『俺がいなくなった今、三葉はあのローンを一人で返していかないといけない……しかも、不妊治療でかかった費用も全部彼女が背負うことになった。まったく、俺は何もできないまま……』 大島は、自分が猫の姿でしかいられないことに対する無力感を改めて痛感した。もし、まだ人間だったら、彼女の支えになれたはずだ。子供ができなくても、2人でそれを乗り越え、一緒に生きていけたかもしれない。 だが、そんな未来はもう存在しない。彼が事故で命を落とし、すべてが変わってしまったのだ。 『畜生……ひき逃げ犯め! 奴が捕まったらたっぷり請求してやる!!』 彼が考え込んでいる間も、三葉はスケキヨを優しく撫でていた。その手は、まるで彼女自身が癒されることを求めるように、静かで丁寧だった。 「ねぇ、スケキヨ……」 三葉がそう口にした時、彼はふと現実に引き戻された。彼女が悲しそうに微笑みながら、自分を見つめているのがわかった。そしてその後三葉は仏間の大島の遺影を見た。 「私たち、もしあの時……赤ちゃんができていたら、どんな生活をしていたんだろうね。あなたと一緒に、家族を作れるって信じてたのに」 その言葉を聞いた瞬間、大島の胸は締め付けられるような痛みに襲われた。三葉もまた、彼と同じことを考えていたのだ。彼女の声には、失った未来への深い悲しみが滲んでいた。 『……ごめんな、三葉』 大島は、心の中で謝りながら、彼女のそばで静かに丸くなった。彼女を慰める言葉も、力も、今の自分にはない。ただ、そばにいることでしか、彼女を支えることができないのだ。 『でも、まだ終わりじゃない。俺はここにいるんだ』 そう心の中で誓いながら、彼は三葉の膝に頭を寄せた。猫の体でも、自分ができる限りのことをしよう。彼女が少しでも笑顔を取り戻せるように――それが今の彼の唯一の願いだった。 『にしても三葉の身体が気持ちよくてたまらんなぁ……』 ある意味下心剥き出しにせずに近くに寄れるのは猫に転生してよかったと思いつつもどのようにすればいいのか全く検討のつかない大島であった。大島には妹のナミがいる。 結婚して北海道で農業を営んでいる。広い空と土に囲まれた暮らしだ。 だが彼女には持病があり、長距離の移動は難しい。それでも三葉とは頻繁に連絡を取り合い、関係は良好だった。金銭面の整理も、弁護士を通して淡々と、けれど丁寧に進められている。 もめる気配はない。それが逆に、大島には寂しかった。自分の死が、きちんと片付けられていく。大島には妹家族以外に身寄りはない。三葉もまた、両親を数年前に亡くしている。残された者同士。 「ナミさんがね、お墓はどんなのでもいいって。私に任せるって言うのよ……困るわよね」 三葉はテーブルいっぱいに広げた墓石のチラシを見つめている。 和室に差し込む午後の光が、白黒の墓石写真をやけにくっきりと浮かび上がらせていた。 墓地は近くの天狗山麓の霊園。整備されたばかりで空きがあるという。若い管理者が入り、清掃も行き届いているらしいと、先日訪ねてきた業者が熱心に語っていた。 値段は、正直安くはない。それでも三葉は予約を入れた。 駅からは遠い。けれど車なら十分行ける距離。 生前、マンションを選ぶときは大島が妙に頑固で、少しでも安く、少しでも条件のいい物件をと粘りに粘った。そのせいで契約までにずいぶん時間がかかった。 だが今回は違う。三葉ひとりだと、決断は早かった。それが、妙に胸に刺さる。 『もし俺が生きてたら……って高すぎるだろ。石っころだぞ、これ』 追心でそう思ってしまう大島。 「仏壇あるんだから十分だろ」とか、どうでもいい理屈を並べて、決断を先延ばしにしていたに違いない。仏壇にはまだ自分の骨壷がある。それを思うだけで、胸の奥がざらつく。 スケキヨは三葉の横に寄り添い、チラシを覗き込む。鼻先をぐい、と紙に押しつける。 『こんな立派なの、いらない。三葉に負担かけるな』 クイッ、と前足で引き寄せる。 「ちょ、スケキヨ」 チラシが三葉の手から外れた。 「もぉ……おもちゃじゃないのよ?」 「ニャー!」 抗議のつもりだった。だが出るのは猫の声だけ。悔しい。 人間の言葉が喉の奥に詰まっているのに、どうしても出てこない。 スケキヨは跳んだ。自分でも驚くほど軽い身体。信じられない跳躍力。一瞬でテーブルの端に乗り、爪を立てる。 ビリッ。 高級
その猫……スケキヨは、今日も飼い主の三葉の足元で丸くなっていた。 彼女が川本夫妻からこの猫を引き取ってから、もう半年が経つ。 スケキヨはこの世に生まれて一年目でもある。猫の顔は、目の周りが黒く、どこかパンダのようにも見える。 しかし、三葉が引き取った時、川中さんの夫が 「こりゃスケキヨだな」 と勝手にそう呼んだのがきっかけで、その名が定着してしまった。 (ちなみに川本の奥さん、房江は「パンダ」かあるいはパンダに似ているから「シャンシャン」とか「リンリン」がよかったらしいが……) 三葉は少し戸惑いながらも、結局そのまま「スケキヨ」と呼ぶことにした。 「スケキヨ、何だかあなた、似てるのよね……くつろぐ姿がさ。それに、いつもあの人がいた場所でくつろいでるし」 三葉は、そう言いながらスケキヨを撫でた。その「あの人」とは、もちろん亡くなった夫、大島和樹のことだ。 その猫に転生した大島は、彼女の言葉を聞くたびに心の中でため息をつく。(もちろん転生したことは三葉も周りも誰も知らない。) この「スケキヨ」という名前もどうにかならなかったのか、と。 彼はパンダのような顔を自覚しているが、なぜ「スケキヨ」と呼ばれなければならないのか。しかし、猫の姿になった今、名前に文句をつけることもできない。 『諦めるしかない……ああ。今更ネコスケとかオカカとか猫特有の名前をつけられても困る。』 転生して一年が経ったが、彼は未だにこの不条理な状況を完全には受け入れられずにいた。それでも、こうして三葉のそばにいられることは、ありがたいとも感じている。 もしあの時、自分が助けた母猫が死んでいたら、今ここに自分も存在していなかったかもしれない。 『命を救ったから恩返しとしてこの猫に転生したのだろうか』 と自分に言い聞かせていた。 『まさか、スケキヨなんて名前で呼ばれるとはな……』 大島は苦笑しながらも、三葉の温かい手の感触に少しだけ癒されていた。 妻に自分の正体を伝える手段はないが、彼女が自分を撫でるたび、心の奥で再び繋がっているのだと感じる瞬間がある。名前こそ「スケキヨ」だが、今のこの平穏な日常は、彼にとって大切なものになりつつあった。 しかし、ふと視線を仏壇に向けると、彼の心はまた別の不安が襲う。 このマンションに置かれた小
「おう、可愛い……可愛い」 声が聞こえた。大島は突然の意識の途切れから目覚め、ぼんやりとその声に耳を澄ました。「房江さん、早くタオル持ってきてくれ!」 次に聞こえたのは、どこか聞き覚えのある男性の声だと。『この声は!!!』「ニャーニャー」 と周りからか細い鳴き声が響いている。生臭い匂いが鼻を突き、大島はますます不安になる。何も見えない。視界が真っ暗だ。『ああ、そうだ……俺、車に轢かれたんだ……』 ぼんやりとした記憶が甦る。車が突っ込んできた瞬間、そして血がじわりと流れ出る感触――剣道の道場で、子どもの頃に階段から転げ落ちた時の出血を思い出させるような感覚であった。 だが今は、それ以上に混乱していた。『周りの猫の鳴き声、鼻をつく血や肉の匂い――これが一体、何なんだ? たく、なんだよ……全然見えねぇし、クセェし。なんで俺の周りに猫が集まってるんだ?』 大島は体を動かそうとするが、思うように動かない。ねちゃねちゃした感触に包まれ、どこか狭く、湿っぽい。何かがおかしい。 すると突然、体が軽くなり、ふわっと宙に浮いたような感覚がした。「この子、真っ白で目の周りが黒いわね。まるで……パンダみたい」 女性の声がそう言いながら、大島は何かに持ち上げられていた。『え? なんだ、浮いてる!?』 大島は焦り、ますます混乱する。視界は真っ暗で、耳だけがやけに敏感に反応する。 そして聞こえてくるのは、「この子」という言葉……まさか、自分のことを言っているのか?「目の周り、拭いてあげましょうね」 そう言うと、突然大きな布で顔をグリグリと拭かれた。布がざらついていて、少し痛い。『ああっ、苦しい! 加減してくれよ! ……って、川本さん!? さっき猫引き取った川本さんか!?』 しかし、彼がそう叫んでも、口から出てくるのは「ふギャァッ」「ふにゃあ」といった情けない声だけだった。『声が……声が……なんでだ!?』 パニックになる大島。 そして、彼はついに気づいてしまった。『……この体、俺じゃない……!』 大島は絶望と混乱の中で思わず叫んだ。 しかし、何も見えないまま、時間だけが過ぎていった。 視界は暗く、ただ生臭さと小さな猫たちの鳴き声に囲まれながら、彼は自分が自分ではない何かになってしまったことを否応なしに受け入れざるを得なかった。 なにか
進学校の裏手に続く坂道は、夜になると別の顔を見せる。 昼間は生徒で賑わう道も、十時を過ぎれば静まり返り、街灯の光だけが等間隔に地面を照らしていた。 ノースリーブのワンピース姿の女が、男の腕に絡みつく。「大島センセ、泊まりたかったなぁ」「無理無理。独身寮だから」「冗談だって。先生って、ほんと真面目だよね」「正直者って言え」 男……大島は苦笑して、そっと腕を外す。 筋肉質な体に、くたびれたジャージとサンダル。色気も風情もないが、妙に人を安心させる雰囲気があった。 駅前で別れ、女が改札を抜けるのを見届ける。「じゃ、また明日」「ああ」 名残惜しさはない。明日も会える関係だ。 鼻歌混じりに坂を上る。 剣道部顧問。四十歳。体力にはまだ自信がある。「夜は涼しくなったな」 そう呟いたときだった。 坂の途中の路地に、光が揺れているのが見えた。 数人の住人がスマホのライトを向け、何かを囲んでいる。「どうしました?」「あ、大島先生!」 川本だった。近所の世話好きな元公務員だ。「排水口の下から猫の声がするんだ。蓋が重くて開かなくてな」 耳を澄ますと、確かにか細い鳴き声がする。「市役所もこの時間じゃな……」 面倒だな、と一瞬思う。 だが期待の目が刺さる。「分かりました。照らしてください」 ライトが一斉に彼を照らす。「俺じゃない、排水口」 小さな笑いが起きる。 鉄の蓋は想像以上に重い。 両手をかけ、腰を落とす。「……っ、ぬおおお!」 鈍い音を立てて、わずかに浮いた。「開いた!」 歓声。 すぐに「静かに」と誰かが囁く。 暗闇に手を伸ばす。 柔らかい毛並み。震えている。「大丈夫だ。怖くない」 だが猫は奥へ奥へと逃げる。 考える時間はなかった。 腕を深く突っ込み、力任せに掴む。「うりゃあ!」「にゃーーッ!」 悲鳴と同時に、ずるりと引き上げた。 砂まみれの大きな雌猫。腹はふくらんでいる。「母猫だわ」 房江がタオルで包む。「先生がいなかったら死んでましたよ」 拍手。 大島は照れ笑いを浮かべた。「大げさですよ」 だが胸の奥に、わずかな違和感が残る。 猫の体は、妙に冷たかった。 解散し、人影が消える。 坂道は再び静寂を取り戻す。「……やっと帰れる」 その瞬間だった。 キキィィィィッ!







